1000人
NHK交響楽団の定期演奏会が2000回を迎えました。昨日、テレビでその録画が放送されていました。曲はマーラーの交響曲第8番、俗に「千人の交響曲」と呼ばれています。演奏するのに、大規模な管弦楽団、ピアノ、チェレスタ、パイプオルガン、歌のソリスト8人、合唱団、児童合唱団などが必要で、楽譜の指示通りにすると総勢で1000人ほどになるという、大変な曲です。
通常は余り演奏されません。大変な経費がかかるからですね。逆に記念的な演奏会では採り上げられることが多い曲です。昨日のテレビで見た限りではかなり規模は小さくしていたようで、せいぜい300人くらいではなかったでしょうか。それでもステージにぎっしりでした。
大阪フィルハーモニー交響楽団が1972年に第100回の定期演奏会で演奏した時は、本当に1000人に近い人数だったとか。写真で見ても舞台の裾まで演奏者が詰め込まれて一杯です。フェスティバルホールのステージが重量に耐えるか慎重に検討したそうです。それよりも現実に問題になったのは、楽屋のトイレの数不足だったとか。そりゃ足りないでしょうね。
大阪人はこんな事大好きですね。
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2024年3月18日 | コメント/トラックバック(0) |
川は
仲宗根美樹さんが亡くなられました。大ヒット曲「川は流れる」で一世を風靡しました。1961年暮れのヒット曲ですから私は9歳。ちょうど病気で1年間小学校を休んでいたときでした。
肋膜炎ですから家で寝ていました。本を読むかラジオを聞くしかありません。ラジオから流れていたのがこの「川は流れる」です。ゆったりとした前奏に続いて「わくらばを きょうもうかべて」と少し粘ったような歌い方のハスキーな声がとても魅力的でした。
ご両親が沖縄の方で、今でこそ沖縄県はタレントを大勢送り出していますが、当時は珍しく感じられていました。「川は流れる」がミリオンセラーですので代表曲ですが、関西地方では「有馬兵衛の向陽閣へ」というコマーシャルソンクを歌っておられて関西人は必ず耳にしていると思います。
ご冥福をお祈りいたします。
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ブルー
1924年の2月12日、アメリカ人の作曲家ガーシュインの作曲した「ラプソディ・イン・ブルー」が初演され、今日でぴったり100年目です。オーケストラとビアノのための曲で、短めのビアノ協奏曲と言えます。
ガーシュインはフランスで正式のクラシックの師匠にもついて勉強し、オペラも作曲していますが、なんとなくポピュラー系の作曲家に見られがちです。この「ラプソディ・イン・ブルー」も出だしがクラリネットのソロが音をズリ上げてゆくという、ジャズ的な曲想が奇抜です。
全体もジャズのムード一色ですが、コロコロ変わる曲想が自然で華やかで、聞き飽きることがありません。亡くなられた小澤征爾さんも若い頃から取り上げてこられた曲で、盲目のジャズ・ピアニストのマーカス・ロバーツのピアノでベルリン・フィルと演奏した録音が残っています。
日本でも山下洋輔さんや小曽根真さんが色んなオーケストラと共演を繰り返しています。
ジャズ、クラシック両方のアーチストから愛されている名曲ですね。
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2024年2月12日 | コメント/トラックバック(0) |
いじめ?
小澤征爾さんが最初、外国で認められて、その余勢をかってN響に招かれて国内でも活動を始めますが、1961年に有名なN響ボイコット事件が起こります。小澤さんの指揮では演奏したくないと、練習に楽団員の誰一人出てこなかったのです。
双方の言い分には無理からぬ点もあるのですが、早く言えば若造のくせに生意気な、というN響側の反発が原因です。今から考えると逆パワハラになりかねないことを平気でしているわけです。そりゃそうですね。あの社長が嫌だから、社員全員が出社しないみたいなものですから。
まあ、歴史にもしもはないのですが、N響との関係がうまく行っていれば案外、彼は国内の活動に注力してN響の常任指揮者かなんかになって、朝比奈隆さんみたいな存在になっていたかもしれません。
ボイコット事件は小澤さんにとっては運命的な出来事になりました。彼も後で、つらく悲しかったが、結果的にかえって良かったと振り返っています。
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2024年2月11日 | コメント/トラックバック(0) |
休んでください
小澤征爾さんが2月6日に亡くなられていたとのことです。私がクラシック音楽を聴き始めた頃、彼のレコードが少しづつではじめました。それも大手と言われるCBSやRCAやEМIからですから驚きました。私達の世代では、欧米の有名レコード各社から日本人の演奏家がレコードを出すことは大事件でした。それを小沢さんが初めて成し遂げたのです。
それどころかアメリカのいろんな名門オーケストラの常任指揮者に次々と就任し、一方ではヨーロッパでの活躍も華々しく、ついにはウィーン国立歌劇場の音楽監督にまでなりました。日本での活動も力を抜くことなく、サイトウ・キネン・オーケストラを立ち上げ、後進の指導にも全力を尽くし成果を挙げられました。
モーレツサラリーマンの音楽版みたいな生き方でした。彼が日本製のスクーターを提供してもらって、それで単身、ヨーロッパを走り回りブザンソンの指揮者コンクールで優勝したのがそもそもの始まりでした。小田実の「何でも見てやろう」に時代的にも一脈通じるものがありました。体当たりなんですね。計算した上の体当たり精神。
彼が日本の若手指揮者をボストンで指導していたとき、彼が与えたチャンスに対してその若手の取り組み方が消極的だと、その人をきつく叱ってこう言ったそうです。「自分(小澤)は与えられたチャンスを見逃したことは一度もない」
まあ、いつ回ってくるかわからないチャンスをモノにするためには、不断の努力が大切なことは言うまでもありません。外国で日本人が音楽の世界で成功するためには、努力とチャンスが同時に必要なことを彼は身を持って示していたのです。
音楽へのひたすらな献身でした。ご冥福をお祈りします。
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2024年2月10日 | コメント/トラックバック(0) |