尾崎紅葉は面白い
いまどきの話題ではありません。紅葉の日記をネタにしようというのだから閑文字も良いところ。
この江戸っ子作家は夭折と言ってよいほど若死にでした。35歳ですから、長寿時代の今では、青年と言えるかも。しかし当時、既に鬱然たる大家として文壇に君臨していたのです。
何しろ威張っていたようです。日記を読むと良く判ります。
明治34年3月16日「朝。十一時起。直に鏡花の家に到りて執筆し、中食を命ず。」すごいでしょ。昼前に起きてきて、泉鏡花の家へ乗り込んで、ちょっと原稿書いて、飯を出せ!ですから。当時、紅葉は33歳、鏡花は五つ下ですから28歳。師弟関係というのは、厳しいものです。私も誰かに命じたい。
同年4月20日「雨。午前、横浜谷口喜作来る。(中略)午飯を出し、二時迄居る。打捨てて上野音楽会に赴く。」威張りくさっていますね。昼食を出してやっても帰らぬから、さっさと自宅を出てきた、というところ。この音楽会でケーベル博士のピアノ演奏を聴いています。
胃弱に苦しんでいたせいか、薬を多量に飲んでいます。また、やたらと「牛乳二合」という記載が目に付きます。好きだったらしい。「牛乳不着」などと書いたりもしています。
反対に、酒は弱かったらしく、午後7時からの宴会で、早くも9時には前後不覚となって、その場に酔いつぶれたりしています。
颯爽としていたことは、日記の端々にあらわれていて、何となくほほえましい。
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2012年3月8日 | コメント/トラックバック(0) | トラックバックURL |