芥川龍之介とラサ・スケートリンクの関係
ウィンタースポーツと言えばスキー、スケート辺りが代表的ですが、私はスキーはした事がありません。大阪市内で生まれ育った庶民の子供としては、スケートが身近でした。
大阪人お馴染みの場所に、淀川沿いのラサ・スケートリンクがありました。何回か滑りに行った事がありますが、「ラサ」とは不思議な名前やなと言う印象が残っていましたが、先日思わぬところからその名前が飛び出しました。
岩波書店のPR雑誌「図書」の1995年に出た芥川龍之介特集号。その中に恒藤敏彦と言う人が書いた「芥川龍之介と恒藤恭」というエッセーがありました。芥川に詳しい人には、恒藤恭の名前はお馴染みですね。龍之介の一高当時の最大の親友、恒藤恭さん。その息子さんが書いた回想文です。
恒藤恭さんはもともとは井川姓であり、大正5年に結婚して入り婿として恒藤姓になったと書いてあります。ここまでは何となく知ってはいたのですが、その婿入り先の恒藤家がなんとなんとラサ工業の創始者と書いてあるのです。
恒藤恭さんの奥さんのお父さん、恒藤規隆さんが明治40年にラサ島(沖大東島)でリン鉱石を発掘、肥料の原料として開発、後のラサ工業を興して事業化したとのことです。今でも沖大東島全体がラサ工業の私有地であるらしい。
ラサ・スケートリンクは、そのはるか後の時代の多角経営の一環だったのでしょう。
恒藤恭さん御自身は法哲学者として学究の人生を全うし、文化功労者として顕彰され、大阪市立大学(新制)の初代学長なども務められています。
大阪とはやはり御縁が深かったのですね。
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2012年2月5日 | コメント/トラックバック(0) | トラックバックURL |