もしも

今日はレーニンが亡くなった日です。1924年に亡くなりましたからちょうど没後100年です。どこかの国で大々的な行事がある、ということも聞きませんから過去の人になってしまっていますね。



ソ連が無くなったことが決定的です。それまでは古本の世界でもレーニン全集やスターリン全集、マルクス、エンゲルス全集などもそこそこ売れていたんですが、最近は全く需要がありません。かろうじてマルエン(マルクス、エンゲルス)全集が、完全に揃っていたら何とか、というレベル。



彼は53歳でなくなっていますから働き盛りでした。レーニンが早死でなかったら世界史は少し変わっていたかもしれません。歴史にifはないのですが。



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また尾崎さん

昨日、尾崎紅葉のことを書きましたが、当時、紅葉と文壇を二分していたのは幸田露伴で二人の名前を一字ずつ取って紅露時代と呼ばれました。漱石が「吾輩は猫である」を連載し始めた明治38年には尾崎紅葉はすでに亡くなっていました。



文壇では漱石よりも遥かに早くから紅葉がもてはやされていたのです。紅葉が古めかしく感じられるのはその為でもあるでしょう。露伴も古く感じられます。ただ、この三人の肖像写真を見ると一番早く死んだ紅葉が断然現代的です。しょうゆ顔のシュッとした男前。今でもキャンパスにいそうな顔です。それにひきかえ若い時の写真を見ても露伴はおいもさん。漱石も気難しいおっさんという感じです。紅葉の敵ではありません。



紅葉の写真とともに作品を文庫でどんどん出したらブームになるかもしれません。ただし、現代語に訳さないともう理解されないかもしれませんが。



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尾崎は面白い

ちょっとした拍子に尾崎紅葉をパラッと読んで、なかなか面白いと思いました。なんだか古い古い人みたいに思いますが、夏目漱石より一つ年下です。漱石は今読んでも古さは感じませんが、尾崎紅葉は文語体の作品が多いので江戸時代かと思えるくらいです。ここらへんが漱石よりも読まれなくなった原因かも。



でも少し辛抱して読むと、実はなかなか斬新で現代的です。お笑い系みたいな側面も実に多い。有名な「金色夜叉」は正月のかるた会の場面から幕があきますが、そこにいたお宮さんの前に富山という金持ち男がさっそうと登場します。指には300円の金剛石(ダイヤモンド)が散りばめられた金指輪が燦然と光っています。



それを見た人たちがそれぞれに言葉を発するのです。



「金剛石!」「うむ、金剛石だ。」「金剛石??」「成程金剛石!」「まあ、金剛石よ!」「那(あれ)が金剛石?」「見給へ、金剛石。」「あら、まあ、金剛石??」「可感(すばらし)い金剛石。」「可恐(おそろし)い光るのね、金剛石。」「三百円の金剛石。」



ここではズラズラと続けて書きましたが、原文では一人一行づつ改行されています。「金剛石」にはことごとく「ダイヤモンド」とフリガナがつけられています。すごい効果ですね。ダイヤモンドの光が眩しいほど感じられます。



と同時に、一人ずつの舞台のセリフだと思うと、ちょっと吉本的でさえあります。つまり滑稽なのです。



読んでみてください。



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大盤振る舞い

ブログのネタに困ったときは「今日は何の日」を見てみます。すると今日、誕生日の人にびっくりしました。



絵本作家の田島征三さんが目に入りました。するとその下に田島征彦さんの名前もありました。なんと2人は双子だったんですね。1940年にお生まれです。



ところがどっこい、もう一人、東君平さんの名前もあったのです。全く偶然に絵本作家が三人、1940年の1月9日に誕生していたわけです。



神様のいたずらとしか思えません。いや大盤振る舞いかしら。



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吉田さんと大和

今日1月6日は「戦艦大和ノ最後」の著者、吉田満の誕生日です。1923年生まれですからちょうど生誕100年です。



「戦艦大和ノ最後」はいろんな形で出版され、文庫本にも何度かなっているのでお読みになった人も多いと思います。初めての出撃で沖縄の海に沈んだ戦艦大和に少尉として乗り組み、九死に一生を得て生還。吉川英治に勧められて執筆。小林秀雄が雑誌「創元」に掲載しようとして占領軍のために全文抹消。占領終了後、初めて単行本として世に出て、感銘を与えました。



漢文体の読み下し文のような簡潔な叙述で、沈みゆく巨艦とその乗組員を記録して、叙事詩としての性格も備えた名文です。ただの戦記文学とは明らかに異なり、不朽の命を持つ作品です。



御本人はそののち、サイダー瓶の破裂によって右目を失明、またご自宅が全焼、発病など、いろんな災難に会われますが、死を前提にした大和乗組員時代の経験に比べたら何ということはない、と恬淡とされていたとのこと。



戦中派は、自分の命を問わない教育の結果、一度捨てた命だからと戦後もがむしゃらに働き、肉体酷使の習慣を身に付けたままぽっくりと50代で死ぬ人間が多い、悲しいことだ、大いに長生きしようではないか、と御自分でも書かれていましたが、結局、それが絶筆となり昭和54年に56歳で亡くなられました。日銀上層部の現役としての死でした。



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