足踏みオルガン
教室のオルガンは懐かしい楽器です。プカプカとテンポがちょっと間延びするような、のんびりした楽器。
パリパリ、バリバリのピアノとは似ても似つかない鍵盤楽器。そりゃそうですね。構造的にはピアノは打楽器ですが、教室のオルガンはリード楽器です。似ているのは、鍵盤だけです。親戚筋はむしろハーモニカです。
阪田寛夫さんの「足踏みオルガン」はそんな、懐かしい音がするオルガンと、その演奏家、作曲家の話です。
「椰子の実」という歌を私たちは、小学校で習いました。
名も知らぬ 遠き島より
島崎藤村さんの詩に大中寅二さんが曲を付けました。この大中寅二さんが阪田寛夫さんの叔父さんでした。大中寅二さんのちょっと常人外れの人生を淡々と、優しく、ユーモラスに描いたのが「足踏みオルガン」という作品です。
大阪の北野高校を卒業、同志社大学を経て、東京の日本基督教団の教会オルガニストとして60年近く演奏活動と作曲を続けた人です。
息子さんが大中恩(めぐむ)さん。この人も父親に劣らぬ国民歌謡を何曲も作っています。一番有名なのが皆さんご存じ「サッちゃん」
この作詞をしたのが阪田寛夫さんです。いとこ同士の共作になったと言う訳です。
この小説は、そのような登場人物をからませながら、市井に生き、信仰と芸術に人生を捧げた人への見事なオマージュです。
ちょっとした知識も教えてくれました。足踏みオルガンは、一見、ふいごのように空気を送って音を出しているように見えますが、違うのです。あれは空気を吸いこんで音を出しているとのこと。空気を出して音を出す仕組みのオルガンは、「ハルモニウム」と言って別の楽器になるらしいです。
読みたい方は、阪田寛夫「土の器」文芸春秋社版に収録されています。文春文庫にもなったと思います。
タグ
2012年2月19日 | コメント/トラックバック(0) |
全集=番付 その3
「解体する文芸」で中島和夫さんは、舟橋聖一さんのクレームから広がった騒動は、髪の毛が白くなりそうだったと回想されています。
結局、舟橋聖一さんの作品は、講談社の「日本現代文学全集」に収録できなかったのです。all or nothingというところでしょう。
当初、収録を予定していて、収録できなかった作家がもう一人おられました。
久保田万太郎さん。こちらも、二人で1巻にこだわられたようです。その直前に出た文学全集で久保田さんは初めて一人1巻になった。それから文化勲章を授与された。で今回、この文学全集でまた二人で1巻に戻るのは、何となく気が進まないので辞退したいという理由だったそうです。文化勲章を持ちだすあたり、手が込んでいて、ちょっと応対に困りますね。
編集者と言う仕事も大変だと、つくづく思います。
一人1巻どころか、一人で2巻を暗に要求したらしい谷崎潤一郎さん(中央公論社の「日本の文学」編集会議の時。その席で川端康成さんに「君も2巻にしないのかい」と声をかけて、川端さんは「いや、私などは1巻で十分」と返答されたとのこと)や、要求もしないのに2巻をあてがわれて、「売れ行きは大丈夫か」と心配したという正宗白鳥さん(筑摩書房の「現代日本文学全集」時)、近いところでは無断で宣伝パンフレットに収録予定と書かれて、作品の収録をことわった村上春樹さん(小学館「昭和文学全集」時)など、文学全集を巡る色々なケースは、人間学の生々しい現場でもあろうかと思います。
タグ
2012年2月18日 | コメント/トラックバック(0) |
全集=番付 その2
大抵の文学全集は、規模にもよりますが、夏目漱石や森鴎外、島崎藤村、永井荷風、谷崎潤一郎辺りに2巻ないし3巻を充てています。
相撲の番付になぞらえて言えば、この人たちが横綱と、大概の編集者は感じているようです。
世界文学全集で言えば、トルストイ、ドストエフスキー、シェイクスピア、スタンダール、マンと言うところでしょうか。
一人1巻は、かなり多くなります。大関クラスですかね。二人で1巻も多い。
出版社がどの時代に力点を置いた編集をするかによっても、巻の割り付けは変わってくるでしょう。
まあ、色々と理屈は付けようがあるのですが、心情的には一人で1巻にしてほしいというのが、作家の正直な気持ちである事は、判らないでもありません。
巻割の予定表を見せられて、自分が単独で1巻でないので、舟橋聖一さんが異議を唱えました。その理屈が、なかなか面白い。
要約すると「自分が昔、岩野泡鳴の文学を再評価してやったので、今、文学的にも認められている。見れば、今度出る文学全集では岩野は一人で1巻である。しかるに私は、二人で1巻の扱いだ。岩野を認めてやった私が岩野よりも扱いが下なのは納得できない。なんとかせよ」ということらしいです。編集者の一人であった中島さんは困ったらしいです。
この波紋が他の作家たちにも及んで、かなりの騒動になりました。
次回へ続く
タグ
2012年2月17日 | コメント/トラックバック(0) |
全集=番付
作家にとって、昔は、文学全集に収録されることがとても名誉な事、社会的にも重要な事、と認められていました。
たとえ短編の一つでも収録される事は目出度い事のようでしたが、大家になるにつれて、笑えぬ喜劇も起こったようです。
全集は全何巻と規模が決まっていますから、ひとりで一冊になるか、もしくは何人かと一冊を分け合うのかは、その作家と関係者にとって、なかなかに微妙な感情を引き起こしたようです。現存作家の場合は、とりわけ難しい判断を全集編集者に迫ります。
中島和夫さんが「解体する文芸」という本の中で、御自分がかつて担当した、講談社の「日本現代文学全集」出版に絡んだ、某有名作家との軋轢について、興味深い回想を書かれています。
「文学全集を作ることは、相撲の番付を作ることと同じことだ」と中島さんは喝破されています。
巻の割り振りは横綱クラス、大関クラス、小結クラスと言う具合に、評価が眼に見える形で出る事なのです。
事前の編集段階で、これにかみついた作家が出現しました。
以下続く。
タグ
2012年2月16日 | コメント/トラックバック(0) |
要所に洋書
へたな洒落を言うと、厚生書店さんや杉本梁江堂さんに「またや!」と言われそうですが、部屋の要所に洋書を置くと引き締まる事があります。
ひと昔前の文学全集のたぐいは、背だけは洋書っぽくした装丁が多く、それらは応接室に置かれたりしました。
大部な英語版のブリタニカ百科事典やアメリカーナ百科事典が日本で大量に売れた原因は、月賦販売形式の普及が大きいのですがそれと同時に、セールスに日本語が堪能なハンサムな外人を多用した事と、応接間の普及が大いに関係しているのです。部屋の飾りとしての書籍ですね。
軍隊の整列に似た、統一した渋い色調と、所々に光っている背の金文字。背皮であればさらに豪華に引き立ちます。
最近の市会で、1869年ボストン版、英訳のギゾー「フランスの歴史」全6巻と「イギリスの歴史」全4巻を仕入れました。背皮、金文字。エングレーヴィングや木版の挿絵多数。
ところがこの背皮が問題を引き起こします。始終読んで、手の脂肪がなじめばいつまでも美しい艶を保ちますが、ほったらかしにすると、いつの間にかひび割れが始まり、ついにはポロポロと剥落してしまいます。
それを防ぐためには、ワセリンやベビー・オイルなどを適宜、皮部分に擦り込んでやらねばなりません。さっそく仕入れた本に擦り込んでやりましたが、砂漠に雨が降った感じで、たちまち吸い込んでしまいます。あちらの背皮は強靭かつしなやかですね。ベタベタにしたと思っても束の間です。かなり乾燥していたと見えます。
手数がかかりますが、しばらくは可愛がってやりましょう。
ところで、売れるのかな?
タグ
2012年2月15日 | コメント/トラックバック(0) |